インドでは、みるもの触るもの、クオリティが低い。っていうか機能しない。

ウキウキしながら乗ったのは、インドの国営航空会社である Air India。9時間かかる国際線にもかかわらず、前の座席に埋め込まれたエンタメシステムは全席で起動不能。USB充電もできない。読書灯すらつかない。
やることがなさすぎて、諦めて目を閉じる。機体だけは整備してあることを祈りつつ。ある意味、瞑想的?

ウダイプールという街の中心部、車が入れないオールドシティで買い物をした。真鍮製のろうそく立てが欲しかった。
ある店先で、カゴにたくさん入って売られているのを見つける。よし、これだ、と思った。
でも。
同じサイズのろうそく立てが、ひとつとしてない。
高さも、幅も、奥行きも、厚みも、全部ちがう。
2つセットでほしいんだけど……。
頭が混乱する。
一番近い2つの組み合わせを選んで買ったけれど、なんとも言えないモヤモヤが残った。
きっと、職人さんが毎日、その場の目測で作っているのだろう。
人間だから、毎回まったく同じようには作れない。
コンピュータ制御の機械を入れて、測定器を揃えて、大量生産すればいいじゃないか、と一瞬思う。でも、そうではないのだ。
小さな工房で、小さな数を、ひとつずつ作る。
なるべく同じにしようとは思う。でも、毎日の気分や体調、天気や流行で、できあがるものは変わる。
今日は天気がいいから、ちょっとのびやかなサイズに。
今日は寒いから、少し小ぶりに。
最近は大きめが売れるから、今日は大きくしてみよう。
お客さんが「これくらい」と言えば、その場で近づける。
そんな感じかもしれない。
機能しない。
すぐ壊れる。
「インドは途上国だから仕方ない」と思っていた自分を、完全には否定できない。
でも、そもそも「途上国」ってなんだ?
発展に向かう“途上”?
発展するべき、という前提は、どこから来たのか?
もしかすると、これは別のかたちの成熟なのかもしれない。
日本人が慣れ親しんでいる(商業的な)クオリティが高い、ということ。
それは、
- 少数の高度なスキルを持つ人がいて
- それを大量に生産するシステムがあり
- それを大量に流通させる仕組みがあり
- それを大量に受け取る「消費者」がいる
という構造の上に成り立っている。
インドでは違う。
少量を、ちょっとずつ、
一人ひとりに合わせてつくる。
工場よりも、多くの人の仕事になる。
誰にでもできる。
その時に必要なものを作れる。
たくさんの人に仕事が生まれる。
その辺のもので、なんとかする。
もしかすると、それこそが生き物の生態系に近い経済システムなのかもしれない。言うなれば、「生態系的経済 Eco-systemic Economy」?
日本とは明らかに違う合理性があるような気がした。GDPに合わせた合理性ではなく、無数の人々の暮らしを成立させる合理性。そこから学べることはあると思う。(考えていきたい)
ちなみにインドにも日本のような大量生産と大量の消費者は生まれ始めている。それが日本人の僕には安心できて心地よいと感じられるのも事実。
さて、「その辺のものでなんとかする」という力。それはインドでは、ジュガード(Jugaad)と呼ばれているらしい。

Jugaadとはヒンディー語で「限られた資源の中で生み出す、独創的で即席の工夫や解決策」を意味する。
ハック、やりくり、間に合わせ。
不十分な環境下でも、知恵と機転で問題を乗り越える精神。世界的にも「フルーガル・イノベーション(倹約的イノベーション)」として注目されている。
ちなみに私たちが訪問したSwaraj Universityのキャンパスの一つで、学生たち(ここでは Khoji(探究者)とよばれている)がたくさん出入りしているShikshantar の壁には、たくさんのポスターや標語が貼られていた。
正直、もっと綺麗に貼り直したらいいのに、


売られている本も白黒で、紙はざらざら。

でも、それでいい。
まず、やってみる。ことのパワー。
日本で育つと、商業的に磨き上げられた「高品質」に日々さらされている。
その結果、どこかでこう思わされていないだろうか。
「自分には、とてもできない」
クオリティは高くなければならない、という思い込み。
それを手放すこと。
それはある種の アンラーニング(Unlearning) だった。
素人っぽいからダメ、ではなく。
素人っぽいから、いい。
次の人を気楽に誘える。
「君にもできるよ?」
なんでもクオリティ高く、と言う囚われから自由になり(アンラーニング)、テキトウにやっていこう、テキトウは戦略的にかなりありだな、と思えた旅だった。

